理学療法士、アフリカへ渡る 〜「たまたま」の出会いが導いた青年海外協力隊への道〜

文化の違いと現地での葛藤

 

まずは佐々木さんが理学療法士になろうと思ったきっかけを教えてください。

 
 

高校2年生のとき、保健体育の教科書にたまたま理学療法士という名前が載っていて、これは何だろう?っていうところがきっかけでした。当時は理学療法士という言葉を耳にする機会も今ほど多くなかったですし、自分が直接お世話になったとか接したとかいう経験も全くなかったんですが、気がついたらそういう方向に向かって歩み始めてた、そんな感じです。

 
 

大学に入学されてからは自分の専門分野を見つけたいというマインドだったんでしょうか?

 
 

それは正直全くなかったですね。

 
 

そうなんですね。(ちゃんと最初から何をするかしっかり決めてそう、、、)

 
 

学生生活も卒業してからもそうですが、どういう働き方みたいなことまで実はあんまり深く考えたことはなくて。ただ、理学療法士になるぞ!という気持ちはもちろんありました。

 
 

意外と流れに身を任せるタイプなんですね。

 
 

それでどうにかなってきたっていう感覚が自分の中にあるからでしょうか。目の前にあることに一生懸命に向き合えば、おのずとその先が開けるっていう感覚が自分の中にあるので、先のことはあまり考えすぎないタイプかもしれません。

 
 

なるほどなるほど。大学時代は網羅的に勉強に励まれてきたと思うのですが、就職するタイミングで福岡市内の急性期病院 (以下:前職)に就職しようと思った決め手はなんだったんでしょうか?

 
 

暮らしやすさを考えたときに福岡近郊がいいかなと最初から思っていたのと、最初の就職先は急性期病院がよさそうだとは思っていて。そういった点で最終的に前職にお世話になりました。

 
 

何年ぐらいお勤めになられたんですか?

 
 

3年間勤めました。それから退職して2年間アフリカに行って。その後、またご縁があって戻って3年間なので、のべで言えば前職では6年間お世話になりましたね。

 
 

出戻り就職も受け入れていただけるような医療機関だったんですね。

 
 

そうなんです。アフリカに行くぞってなった時には戻るつもりは全くなかったんですが、当時のリハ課長がよき理解者で「もし戻ってきてくれるんだったら、椅子開けて待っとくよ」と言ってくださっていたんです。実際、アフリカに行ってる間に心境の変化があって、前職で再度働かせてもらいたいと相談させていただき、「もちろんいいよ!」ということで。

 
 

さきほどアフリカという話が出ましたね。アフリカに行くことは前から決めてたわけじゃなくて、前職で働く中で、別の興味が湧いてアフリカに行くことになったんじゃないかと想像したのですが、そもそもなぜアフリカに?

 
 

いま考えてみると、当時は3年働いて「よし、急性期のことはもうわかったぞ」みたいなところがありまして。

 
 

3年目の錯覚というやつですね (笑)

 
 

まさにその状態でして、いま思うと非常に恥ずかしい勘違いをしていたなと反省しています(苦笑)。さきほど言った「大体、急性期の理学療法はわかった」みたいな感覚もあって、それなら「もっと今しかできないこと、今だからできることをやってみたい」という気持ちが芽生えた時期だったように思います。

 
 

分かるような気がします。

 
 

職場を変えるのか、何か違うことをするのか。とにかく、今しかできないことはないかなと。当時は組織の中で特別な役割を任されていたわけでもなく、家庭を持っているとかそういうこともなく、とにかく身軽でしたね。

 
 

余計になにかしたいという気持ちは強くなりますよね。

 
 

そういう時に、たまたま友人からJICAの青年海外協力隊 (現 海外協力隊)のことを教えてもらって。「何それ?2年間途上国で生活するの?それって面白そう!」となりまして (笑)

 
 

当時の自分に刺さったんですね。

 
 

聞いた瞬間にもうこれだ!と思って、翌日には資料を取り寄せていました。

 
 

早いですね行動が。

 
 

その後すぐに応募し、審査を経て福島県の山奥で行われる語学訓練合宿に参加しました。

 
 

山奥にあるんですね。

 
 

雪に閉ざされた過酷な環境でしたが、無事2カ月間の語学研修を終え、春先には常夏のタンザニア共和国へ飛び立ちました。

 
 

JICAとして向かったタンザニアでの一日の流れってどうなるんですか?

 
 

各隊員の2年間のミッションはそれぞれ最初から決められていて、僕の場合は現地の患者さんへ理学療法を提供するのがその1つでした。そして、派遣先の国立病院で、院内環境の改善に向けてできることを提言したり、実際にアクションを起こしたりすることがもう1つの役割でした。

 
 

カルテは、現地の言葉で記録されるんですか?

 
 

カルテは病院が保管するものはなく、患者さんがちっちゃなノートブックみたいなものをそれぞれ持ってくるんです。それに日付とリハ時の情報を書き込んでいました。記載は基本的に英語で、例えば pain + など、他スタッフがみても分かるような表記をするようにしていました。

 
 

リハビリするときは患者さんと会話することになりますよね?

 
 

現地の人たちは英語が一応、第二公用語なんですが、あんまり喋らないんです。スワヒリ語という第一言語をメインで使うので、僕もスワヒリ語で。

 
 

スワヒリ語、、、難しそうですね。例えば日スワ辞典、スワ日辞典みたいなものはあったんですか?

 
 

一応ありましたね。文法などは英語に近く、発音もシンプルなので、思っていたよりも習得しやすかった印象です。

 
 

なんだかアフリカと聞くだけ、未開の地というか。謎な感じがするんですけど、意外と踏み入ってみるとそうでもないというようなこともあるんですね。

 
 

そうですね。僕も行く前はアフリカのことをよく知らないし、タンザニアという国のことも全く知らない。どこにあるの?から始まるというか。ただ、いくら現地へ行く前に調べたからといって事前に得られる情報ってすごく表層的なのも事実です。

 
 

(見学したときと働いてみたとき印象が違う職場と似てるな、、、)

 
 

実際に身を置くことで分かる社会の構造や歴史的背景、あとは宗教の違いとかですね。初めはそういうことで戸惑うようなことがよくありました。

 
 

ちょうど今、戸惑われたことがないのかなと思ってお聞きしようと思ったんですけど、やはり宗教の違いで戸惑うことが一番多かったんですか?具体例があれば教えください。

 
 

タンザニアではイスラム教とキリスト教と、もともとの土着の宗教が信仰されています。東アフリカの国々の特に沿岸部は、かつての中東との交易の関係でイスラム教徒が圧倒的に多いんです。宗教的な特徴で言うと、イスラム教徒の方々は日常生活と宗教が切っても切れない関係にあって。

 
 

といいますと?

 
 

例えば、日々のいろんなことが宗教のなかで規定されています。結婚はこういうふうにしてやるんだとか、宗教の教え自体が法律みたいになっている側面があるんです。

 
 

なるほど。これって多分日本人にはつかみにくい感覚ですね。

 
 

政教分離とも言いますが、日本では宗教を信じないなら信じないでも日常生活への影響ってほとんどないと思います。でも、イスラムの人々は生活そのものが宗教の教えをベースに成り立ってるんです。宗教と生活が表裏一体のような。

 
 

その感覚は掴みづらいですね。

 
 

あと、イスラム教徒は神というものを絶対の存在として、心の底から信仰しているように感じます。すべてのことは自分じゃなくて神が決めるんだという考え方です。例えば、いま自分がここにいるのは神が決めたことだし、いま自分がこの仕事をしているのも神が決めたこと。いまここでご飯を食べているのも神が決めたことだし、っていう感覚が当たり前にあるみたいですね。僕は最初それがわからなかったんですけど、ある時それが分かったのが、乗り合いバスの中で、隣にいたおばちゃんに足をギューって踏まれた時です。

 
 

はい。

 
 

走ってるバスのなかで揺れたんでしょうね。足を踏まれてますからアタタってなって、、、ただ、日本だったら「あら、すみません」ってなるところが、そのおばちゃん、「あら、お気の毒に」って言ったんです。

 
 

!?!?

 
 

踏んでいるおばちゃんがです。「え?」と思ったんですが、でもそれってよく考えてみると、「私があなたの足を踏んだのは神が決めたことなのよ。お気の毒だったわね」っていうことなんです。

 
 

なるほど、そういうことですね。

 
 

そう考えてみると、「ごめんなさい」とかっていう表現、向こうの人は、あんまり使わないことに気がつきました。いいことも悪いことも、あらゆることは神が決めるものとして受容しているようにみえましたね。

 
 

理解するのに時間がかかりそうですね。

 
 

そのためか、約束事をしてもなかなか守られないというか。会議を組んでもその時間に来るということは99.9%ないです (笑) 次の日に「昨日の会議、なんで来なかったの?」と聞くと、「神が思し召しじゃなかったんだ」っていう感じなんです。

 
 

それはなかなか、、、この感覚は、日本人からすると、頭で分かったとしても、感覚的に理解できないかもしれません。

 
 

そういえば語学研修では「日本の常識は世界の非常識だ」と教わっていたんですよね。行く前はそんな感覚よく分からないから「どういうことだろう?」と思ってたんですが。。そんなこんなで、思った通りにものごとが進まないなんてことは現地では日常茶飯事でした。

 
 

その過酷さは行く前には想像できないかもしれませんね。

 
 

なにか工夫・改善していい方向にものごとを持っていくとか、そのために努力をするとか、そういうマインドが育ちにくい環境だなとは感じました。だからこそ、日本からボランティアというかたちで理学療法士が来て、診療の手助けをしつつ、自立してより良い医療環境を作るための手助けが必要だったんだろうなと、今になれば思います。

 
 

現地の医療職のマインドも、自分が治療してうまくいかないみたいなのも、神の思し召しみたいな捉え方になっちゃうってことですか?

 
 

そうかもしれません。自分がこういう病気になることも、それに対する治療がうまくいかないことも、そこに対して誰か個人の責任を問うとかいう発想よりは、自分はこういう定めなんだと。そういう感覚は、日本人に比べると強いんじゃないかなと思います。

 
 

日本の医療だと、少しでも治る可能性があるんだったら、自分ができることは何でもしたいみたいな感じだと思うんですよね。通常だったら。

 
 

だから歯がゆいというか。僕自身がこういう想いで理学療法をするんだ、もっといい方向に向かってほしくて介入するんだと思っても、独りよがりな支援になってしまう感覚がありました。1人だけ現地の理学療法士がいたんですけど、その人も働くということに対して積極的じゃないというか。奥でずっと紅茶を飲んでいるとか。外来患者さんで行列ができても、僕だけがバタバタ仕事をして、他のスタッフはゆっくりのんびり、みたいな場面はよくありましたね。

 
 

それは気持ちがしんどくなりそうですね。

 
 

そういうこともあって、何度か僕の思っていることを感情的に伝えてしまった場面もありました。ただ、現地の医療職の方々がただ怠けているというよりは、宗教的・文化的な背景がそこにあったわけで。あとは社会主義的な社会構造の国だったので、サービスというものに対して人々が汗をかくみたいな感覚自体も希薄だったのかもしれません。いろんな要因が重なっていたんでしょう。

 
 

そこまで考えれるようになるには時間がかかりそうですね。

 
 

日本人ってとにかく働くじゃないですか。人を待たせたくないし、いろいろスムーズにやりたいし。その感覚のままで現地に行ったので、1つもうまくいかん!みたいな感じは毎日ありましたね。だから、自分は現地スタッフの代わりに働くために来ているのか?と自問自答することも多かったです。休憩する彼らの代わりに働く要員として自分はここにいるのか?みたいな感覚になると、やりきれないというか。何のために自分はここにいるんだろうかという、存在意義の葛藤ですよね。果たして彼らが自分の力で院内環境を良くしていくことにつながっていくんだろうか。 ただの甘えを生んではいないだろうかみたいな葛藤がずっとあって。そこは辛かったです。

 
 

その気持ちは自分の中で、最終的にどういう形で落としどころをつけたんですか?

 
 

「タンザニア人に会いたくない、仕事に行きたくない」みたいな時期も正直あったんです。途上国のためになにかしたいというマインドはありましたが、「誰かのために」みたいなモチベーションじゃ到底乗り越えられないってことに、ある日気づいたんです。誰かのために自分を犠牲にしつづけるような感覚は正直きついぞと。

 
 

なるほど。

 
 

そこである時、大変な経験だけどこれは自分自身を成長させるきっかけになるんじゃないかと考え方を変えてみたんです。2年間のタンザニア生活は苦しいことも多いけど、自分が成長することで、日本に帰ってから自分の力を別のなにかで還元できるんじゃないかと。新しいことがきるようになれば、日本で何かの役に立てるんじゃないか、そのための修行期間なんじゃないかっていうふうに考え方を変えた時に、ものすごく気持ちが楽になったんです。

 
 

(悟ってるな、、、尊敬)

 
 

周りに対して「こうあるべき、これが当たり前」みたいなのを求めすぎていたと反省しました。「郷に入っては郷に従え」じゃないですが、現地の考え方を尊重して、自分が肩の力を抜いて日々を過ごしてもいいんじゃないかなと、最終的には思えましたね。

 

Profile

佐々木圭太さん

2005年 鹿児島大学卒業
福岡市内の急性期病院に入職
2008年~2010年 青年海外協力隊員としてタンザニア共和国に赴任
任期満了に伴い帰国
2010年 急性期病院に再入職
2013年~ 専門学校教員として理学療法士養成に携わる
2021年~ (公)福岡県理学療法士会 理事